花のように生きる〈生きる意味は何かという問い〉

花のように生きる〈生きる意味は何かという問い〉

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おはる

お店を見つけていただきありがとうございます!

 

こんにちは!
プリザーブドフラワーのオンラインショップ ohanabakoのお店を運営している、おはる@ohanabako)です☺

何のために生きているのかという意味を問いただしてきた10代20代


私は何のために存在するのか。

私は何のために生きているのか。

私という存在の価値はなんなのか。

 

気づけば私は、ずっと〈生きる意味〉を追い求めてきた気がします。

 

10代の頃は、ずっと勉強をしていました。

授業中は、積極的に手を挙げて発表し、家に帰ったら習い事に行き、宿題は完ぺきに済ませ、先生に褒められました。

先生が通信簿や懇談会で褒めてくれると、

「さすがはおはるだね、かしこいね。もっと頑張ろうね。」

と母は嬉しそうに褒めてくれました。

 

少し点数が悪いと、お母さんはあまり嬉しそうじゃありません。

先生も

「どうした?らしくないな。」

と言ってきたので、勉強をしない自分でいたら褒めてもらえない。

私の存在価値はなくなってしまうんだ。

と思っていました。

 

高校生になって、進学校に通っていた私は、相変わらず勉強ばかりやっていたのですが、

内容がどんどん難しくなってきたので、勉強をすることが辛いと感じることが多くなってきました。

 

中学生に入ってから、テストの点数順に学年順位が出るというシステムでしたが、中学生では難なく上位に入っていたのが、高校生になって、どんどん順位がとれなくなってしまいました。

 

「このままじゃ、○○大学に行けないよ、もっと頑張れ。」

「今回は調子が悪かったんだよな。次はもっと頑張れ。」

 

お母さんや先生の言葉は、前に進めない私の背中の後ろで、槍をもって「前に進まないとこの槍が背中に刺さってしまうよ。」

という言葉にすら聞こえて、辛いこともありました。

 

お母さんや先生の望んでいた大学に、届くだろうという基準点に全く届かず、とうとう私は勉強を辞めてしまいました。

それまで、「なんとか期待に応えて、私という存在意義を見出さなきゃ。」と、ギリギリ保っていた糸が、プツンと切れた瞬間でした。

 

それから、私は勉強を再開することができず、なんとか滑り止めの大学に通いましたが、

一日中ベッドから出れずにいたり、夜に帰ってこなくなったり、過食を繰り返したりしていました。

 

「勉強ができない、こんな大学にしか通えない私が生きる意味なんてない。」

って思っていました。

 

そんな日々の中、友達からメールが届きました。

「おはる、今日学校きてた?最近見ないから心配だよ~」

 

彼女は、花が大好きな女の子で、私が〈こんな大学〉と思っていた学校のことが大好きで、いつも勉強やバイトを頑張っている、とっても明るくて優しい女の子でした。

 

「○○の授業、今度一緒に受けよう~」とか

「美味しいパン屋さんができたんだって、一緒に行こう~」

 

と、いつも声をかけてくれました。

私は、その彼女に会うたびに、

「こんなに存在価値のない私でもいいんだ。」

「私は私のままでもいいんだ。」

と思えるようになりました。

 

勉強はしなかったけど、きちんと学校に通い、無事に大学を卒業できたのは、彼女のおかげだったと思っています。

 

 

 

生きてるだけで全てOK。生きてるだけで宝物。


「私はこれだ!」

という執着を捨てること。

他人の期待に応えていくこと。

こうじゃないと、という常識にとらわれないこと。

誰かと比べること。

 

そんなことを、少しずつ私の棚から降ろしていって。

 

生きていることが、意味があることなんだ。

 

様々なことに気づき、理解していくなかで、私はまた元気を取り戻して、ごく普通に生活を送れるようになりました。

 

今、私は改めてこう思います。

 

「ただ普通に生きているだけで幸せ」

「一日一日、ただ普通に生きれたらそれだけで十分」

 

生きる意味とか、自分の価値とか、そんなことを考える必要はない。

 

だって“生きている”ということそのものが意味だから。それが命の本当の意味だから。生きていること、ここに人間として存在していること。それが確固とした意味だから。

 

ただ生きていればいい。

ただ生きていけばいい。

 

そしていつか時が来れば、死を迎えるわけだから、

それを受け入れて、静かに死んでいけばいい。

 

それはまるで花のように、芽を出し花を咲かせ、枯れて土に戻るのと同じなんだと。

 

道端に咲いている花は、誰の役にも立っていません。

ただ、そこに咲いているだけです。

でも、花はときどき、その美しさで人の足を止め、心を喜ばせ、笑顔にさせます。

花は自分で何かをすることはないけれど、ただそこに存在するだけで、人に喜びを与えている。たとえその喜びが「たった一人にだけ与えたもの」だったとしても、その喜びには限りない豊かさが宿っている・・・

 

もしその一生、誰にも見られることなく枯れていった花だったとしても、その花の一生は「無意味だった」と言えるでしょうか。

私はそう思いません。なぜなら、そこに生き、そこに存在すること自体が、明確な意味だからです。

事実、自分の娘には、そういう気持ちがあるからです。

娘が毎日、ただ生きている、それだけでいい。

 

命としてそこに在る、そこに存在している。それだけ確固とした意味、宇宙が授けた意味を宿す尊い存在です。

 

昨日、娘を迎えに行きました。学校まで歩いていると、空がちょうど、青から赤のグラデーションに彩られていました。

 

(そう、ちょうどこんな感じ。)

 

空を見上げる。海を眺める。道端に咲いている花に立ち止まる。

そこにこそ、生の喜び・美しさがあるんだと思います。

 

何の為に生きているのとか、どこから来てどこへ行くのか、

などという果てしない問いは、目の前にある大切なものを見失わせることがあります。

 

悩みが尽きない、なんて思わずに、今日一日、生きていることに感謝して丁寧に生きよう。

自然が教えてくれることは、沢山あると思うのです。